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先生たちの噴水

 


                               江花道子  2002年10月、ローマ

 それは広大な庭園であった。テニスコートを細長くのばした形で、芝生のほかには花も何もなかった。丘になっているらしく、周囲は木々で覆われ、やや奥まった中心部に二重の噴水があり、鳥の水浴び以外には物音もなく、これが東京かと思われるほど静謐そのものであった。今泉篤男先生に何かの推薦状をいただくために伺った初めての日で、時間を間違え二時間も待たされたその日のことを忘れない。ずっと後になってこれこそ西洋における修道院の中庭であり、Venezia SanGiorgio島の Chiostroであり、Firenze Medici家庭園であることがわかったけれども、その時は北海道の荒々しい港から日大に上京したばかりの者にとっては、二時間どころか、もっと待たせて欲しい悦びであった。

 その後、河北倫明先生のお宅に絵をもって伺うことが何度かあった。純日本式の家屋で、トラックで運んだ絵を塀に立て掛け 時間待ちをしていると、先生がガラガラと窓を開け、「おーい、もう来たか、早く入れ」、入ると途端に叱られるばかりであった。中山公男先生はいつも一人で、何万冊もある西洋の厚い本で床が完全に傾いた暗い明治時代の代官山アパートで、必ず出版社の人が来ていた。そこでもいつも叱られるばかりであった。しかし叱られる度に先生のお言葉の中に、西洋美術の理想の形が明確に見えたので少しも辛くはなかった。日大の古いアトリエに3年生の時、糸園和三郎先生がおいでになった。当時、賞をおとりになり、輝かしい時代であったとは思えないほど静かで、良家のお坊ちゃんのように見えた。先生は絵よりも生徒をじっと見つめて一言もおっしゃらなかった。けれどもその濡れた大きな目は、これは良い、これは乱暴だと全てを語っていた。ほとんどが男子学生であったため、「江花君、君は早く家に帰りたまえ、絵が待っているだろう、僕たちは酒盛りをするから」と帰して下さった。

 その後、イタリア外務省から奨学金をいただき、夢中になって勉強し、重病にもなった。給費が終わり、ローマJALで働いたこともあった。しかし、いつもどんな辛い時でも、想い描くのはあの広大な静謐な庭園である。あの先生方は皆、その目の中に、その言葉の中に、広大な人一人いない噴水の音だけが微かに鳴る、美の庭園を所有しておられると思う。また同時にそれはCatholic修道院にとっては残り少ない地上の命を、誤りなくまっとうするための生命の噴水なのではないか。

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